当事者意識を持てと言われても持てない話

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当事者意識って、「持て」と言われて持てるものではないよなぁという話。当事者意識ってアイデンティティに属するものなので、当事者意識を持って仕事に取り組む姿勢やスタンスとして、身につけるものじゃないかなと思っています。

最近ホットな「当事者意識」

実は今、職場でちょっと「当事者意識」がホットです。背景には、リモートワークで仕事へのスタンスがうまく合意形成できないとかいう環境的要因もあるかな、と思っています。

一方で、仕事のアサインを待ってしまうメンバーというのもやはり存在しており、そういう人を見ると「当事者意識が足りない」と言いたくなるのも理解できます。

ただ、この「当事者意識」という言葉の定義というか、期待値というか、評価関数について、ちゃんと合意形成できてるんでしたっけ?っていうのが気になってみました。

当事者意識とは状態、つまりアイデンティティである

結論というか私なりの今の考え方として納得している見方を紹介しますが、ずばり当事者意識とは「アイデンティティである」と考えています。

当事者意識とは何かを考えようとすると、なかなかに難しいのですが、辞書的に言えば当事者とは「その事に直接関係を持つ人」となります。じゃあ仕事における当事者とは何か、となるわけですが、ここで当事者を「実施者」と捉えるか「所有者」と捉えるかで考え方にずれが出るように思います。

私の考える当事者とは「所有者」です。当事者意識とは「オーナーシップ」だと捉えています。だから実施者以上の裁量を持つものと考えており、翻って、そこまでの裁量がなければ当事者意識なんて持てないと考えています。

ちなみに、「実施者」の考え方から見れば、ちゃんと作業をやり遂げることに責任を持つ、くらいの意味になりますが、オーナーシップというともっと深く大きな関わり方と感じることができるでしょう。

じゃあ当事者意識とは何か、それを「持つ」とは何かという解釈の話になるわけですが、ここは言葉の組み上げを諦めて、当事者意識を持つという状態に対する期待値という見方をしたほうが良いかなと考えています。つまり、「当事者意識を持って仕事に取り組む姿勢」のような、”当事者意識を持った状態”を定義できないかな、ということです。

そうすると、先のオーナーシップという考え方とつなげて、オーナーシップを持った取り組み方という解釈ができます。

オーナーシップとは「深く大きな関わり方」と書きましたが、端的に言えば、例えばその作業を「実施しない」「やり方を変える」といった裁量までを持つことを意味します。これが当事者意識の本懐ではないかと考えています。それくらいの裁量を持って、仕事に深く大きく取り組むことで、「当事者意識を持った取り組み方」ができるのではないか、と思うわけです。

これをアイデンティティと考えたり理由は、その仕事へのスタンスが、手順や仕組みでは表現できないかなぁと思ったからです。当事者意識を持った仕事への向き合い方、それをアイデンティティと定義し、そこから生み出される行動こそが、より高い価値ある成果を生み出す、くらいに考えておいたほうが良いかな、と思ったのでした。

つまり、当事者意識とは、アイデンティティ。そのアイデンティティを獲得するには、裁量を広く手にしないといけない、ということです。

実体験から感じた当事者意識の感覚

なんでこんなことを考えたか、といえば、それは実体験として当事者意識を持たざるを得ない状況になった経験があるからだと思います。

エンジニアをしていた頃、実際にあった話です。とにかく担当者がいなくなるから、明日からお前がこのシステムの障害対応をしろ、みたいな雑な引き継ぎを複数回受けたことがあります。結果として、耐性も付きましたし、今から振り返ると、これが当事者意識だったのかな、と思うところでもあります。

自分がもし判断を間違えたら、自分の後ろにはもう対応するメンバーが居ない状態、というのは人数の少ないエンジニア組織ではあるあるだと思うのですが、要するにそういうことです。やらざるを得ない状況で、かつ、その状況を打破するには、思い切った判断も厭わないスタンスが必要になります。

この経験を思い返してみて、ふと今でも自分の考え方として身についているものとして思い浮かんだのが、『やれることはすべてやったと言えるのか』『他にやり残したことは無いのか』というフレーズでした。自分が仕事に向き合うときの基本スタンスとして、これが生きているのは、まさに当時の障害対応の経験があったからかなぁと思います。

まあ、振り返ると相当ブラックだったかなぁと思いつつ、それも自分の血肉になっているので良かったのかなぁと。同じような経験を後輩にもして欲しいとは思いませんが、『やれることはすべてやったと言えるのか』『他にやり残したことは無いのか』は是非伝えていきたなぁと思います。

なお、この言葉は、自分に対して、恥ずかしくないか?という自問の言葉であり、一方でシステム利用者やユーザーに対してその対応で恥ずかしくないか?という言葉でもあります。これが当事者意識ではないかなと、私は考えています。

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