嫌なことをされた時、そこに敵意や悪意を感じることは少なからずあると思います。ただ、そこには価値観の違いの可能性があることを忘れてはいけないという話です。その行為は本当に悪意によるものなのか。多様性の入り口の考え方について。
あおり運転の話に見る「道を譲らない人」の心理
以前、情報共有しない人の話を書きました。
この中でちらっと触れた、「干渉されたくないから情報共有もしない」という話題に関連した話です。はたしてその行為に悪意はあるのか?という点についてです。
まず、価値観の相違について。価値観の相違とは何かというと、ある人が嬉しいと思うことが別の人には嬉しくないという、嬉しい・喜ばしいポイントのズレのことです。上記の例でいえば、情報共有する人は、それを良かれと思ってやっているし、情報共有しない人も、それを良かれと思ってやっている。ただ、それぞれは相手に対して、なんでそんなことしてくれるんだ、と思っている。これが価値観の相違です。
つまり、そこに悪意はありません。むしろ善意しか無いのです。理解されない善意が翻って悪意と受け取られるケースがあるよ、ということです。そしてもう一つ厄介な価値観があります。そもそも情報共有というものの存在を認知していないケースです。その行為自体に意味を見出していないというか、その行為自体が、概念として存在しない人です。
具体例として、車を運転していて道を譲らない人のケースがあります。
私は例えば山道や高速道路などで後方から速い車が来ると、安全とストレス回避のためというところもあり、先に行かせるよう道を譲ることが多いです。私は「譲る人」なんです。一方で、「譲らない」という選択もあり得るかなと思います。それは例えば、後ろから来る車に対して悪意や敵意を持って、妨害したい場合かもしれません。理由は何にしろ、「譲らない」という選択肢はあり得るわけです。
じゃあなぜ私の中に「譲る」「譲らない」という概念があるのか、というと、逆の立場になった時、自分は遅い車を「追い越す」ことがあるからです。自分が追い越すことが想定できるから、追い越されること、道を譲ること、あるいは譲らないことが想定できるということです。
一方で、たまにあおり運転の話題で出てくる「道を譲らない人」が、すべて前述のような、妨害というか、譲るまいという敵対心、あるいは悪意によるものなのか?という点です。私はここに「譲るという概念がそもそも存在しない人」が居るのではないかと思っています。
どういうことかというと、道を譲るということは、自分が追い越されるということを想定できる必要があり、つまりは自分が追い越すという行為の可能性を認識しているからこそ、選択できる行為なのではないか、ということです。道を譲れるということは、人を追い越すことができることの裏返しということです。
じゃあ人を追い越すことを考えられない人からすると、人に追い越される、道を譲るということは選択肢にも上がり得ないということで、そこには敵意も悪意も存在しないということです。その行為自体が、価値観として存在しえないわけです。
好意と敵意と認知の欠如は別の事象と考えたほうが良い
その行為を選択肢として持ち得ない状況、認知の欠如とここでは書いておこうかと思いますが、これが実際には起きているケースは少なくないのではないかと私は考えています。
そこには好意も悪意もなく、ただ、見ている世界の違い(あるいは解釈の違い)で、全く別の価値基準で行動を行っている人が、世の中には存在するということです。極端なことを言えば、上記の情報共有しない人だって、やはり見ている世界が異なるのかもしれません。
この考え方を実は私はオススメしたいと考えています。そもそも価値観を理解しあえない相手も存在するということを、可能性として考えるようにしましょう、ということです。回りくどい言い方になってしまいますが、とにかく、好意でも敵意でもなく、無意識あるいは認知の外側の事象として、価値観のズレとそれに伴う軋轢が起きる可能性があるということです。
そんな人とは一緒に仕事をしたくない、と考えるのは自由です。そういう価値観の混合チームをチームとしてマネージしたいと思う人もいれば、そもそも価値観のフィルターで排除したいと考えるのもマネジメントとしてはアリだと思います。
ただ、多様性による組織パフォーマンスの最大化を目指すのであれば、こういった価値観の混在を許容していかなくてはなりません。前提として、価値観の相違の背景には、双方それぞれ好意しかないが、相手には敵意または悪意と取られるケースがあるということ、さらには行動の意味背景が全く認知されない認知の欠如もあり得るということを共通認識とすることで、軋轢を少しでも避けられないか、と考えている次第です。
私自身の経験からいえば、この考え方で回りの人たちの価値観や判断基準と向き合うことで、かなりストレスを避けられるようになってきたという自覚があります。同じ景色でも全く見えている世界が違うという可能性を想像することが大事なんだと思います。
足の小指をタンスの角にぶつけるととても痛いです。理由は、そこにはタンスがあるなんて思ってもいなかったから。人間は想定外のことに対する耐性が意外に弱いものです。すべてを想定の範囲とすることは当然難しいのですが、多少なりとも「想定」に遊びや解釈のぶれを持たせることは、実生活においてもそれなりに意味があることなんじゃないかなーと考えています。
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