実体験から見た、「分かってる人」の言動の特長について。結構気になることがあるので書いておきます。
お前、”分かってる?”
いやいろいろ熱弁を振るう割に、話に中身のない人ってたまに居ますよね。一方で、すごい説得力があったり、この人わかってるわーって思うこともある。この差はなんだろう、って思っていたんですが、最近その法則性らしきものが分かってきました。
ずばり、本当に分かっている人は、断定しない、そして同じであるという言い方をします。
断定しない
これとあれ、どっちが優れているか、という比較を行うシーンは世の中少なくないですが、本当によく知っているモノであればあるほど、どちらが優れているという断定は難しくなります。
ある用途ではこっちの製品のほうが優れているけど、この面ではこの製品のほうが良い、この製品にはこういう長所もあるけど、代わりにこういう短所もある・・・という話です。
だから僕は、断定しない人の意見のほうがむしろ信頼できると思っています。ちゃんと複数の側面から物事を説明できるってことが、本当に理解しているってことなんじゃないかな、と。自分もそういう説明を心がけるようにしていますし、そういう説明ができるように、物事を理解しようとしています。
同じである
これとあれは違う、という物言いにも私は違和感を感じます。良くあるのが、あの事例はウチでは活用できない、ウチの会社(業界)は違うから・・・的なやつね。否定から入る、的な。そうか、「違う」の裏には否定があるからなのかな。
むしろ分かってる人は、共通点を起点に説明をしてくれます。これもあれも、ここが同じ。得られる結果が同じとか、味が同じとか、考え方が同じ、とか。でもこの点が違う。説明として、こちらのアプローチのほうが圧倒的に説得力があるし、体系的で分かりやすくなります。
情報の厚み
結局、このように「断定しない」「同じである」という説明から得られる情報って、「断定的で」「違う」という説明に比べると、圧倒的に情報の厚みが違うんだなって思います。きちんと枝葉が綺麗に付いた木の幹のようにスジが通る感じです。
メッセージは短く簡潔に・・・とかいうパワポ芸文化に慣れ親しんでしまうと、本来そこに表現されるべき情報の厚みまで削ぎ落としてしまい、逆にメッセージ性の希薄な情報を発信している可能性もあるんですよね。一つ考え方、表現の仕方として、意識したい2つのポイントだと思っています。
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