持論ですが、「ルールは破るためにある」という意見について書いてみたいと思います。なぜかこういう話をすると、それはルールや規則に対する冒涜だとか言い出す人が居ますが、そうではありません。ルールや規則は、目的があって定められたものです。
ルールとは「線」である
ルールとは、レギュラーとイレギュラーを分ける境界線のこと。つまりレギュラーとイレギュラーの双方の存在を認めることがルールであり、イレギュラーの存在をなかったことにするのがルールではない。
この前提に経てば、ルールの「運用方法」も分かってくる。
レギュラーは頻出するもの。だから対応コストを下げなければいけない。標準化しなければならない。発生頻度はある程度多いことを想定しなければならないし、むしろそのルールの範疇で正しく安定的に回せなければいけない。
イレギュラーは頻出しないもの。だから対応コストの大小はあまり気にしない。重要なのは、イレギュラーが発生することで、レギュラーな運用に影響を及ぼさないこと。そのために「超法規的な」対応が認められるのがイレギュラー。ルールの範疇で対応できないから、イレギュラー。
イレギュラーをルールの中で対処しようとするのが悪手なのは、ルールがそもそもこのレギュラーとイレギュラーの境界線を定めるために存在しているため。イレギュラーなものをルールの中で扱うなら、ルールは要らない。
同じ理由で、ルールに適合しないイレギュラーの存在を認めないことも悪手。それはルールに適合するレギュラーな運用の遂行にとって、リスクとなってしまうから。
これくらい俯瞰的に考えると、「ルールを破ること」の本質が見えてくると思う。
だからルールは破るためにある
ルールは破るためにある。これはイレギュラーの存在を前提とした運用のことを言っている。この「破る」が、ルールの範疇の運用、つまりレギュラーの対応を破壊することを意味すると考えるのは良くない。
ルールという境界性を、時には軽々と超える発想が無いと、そもそもレギュラーの運用の最適化も難しいよ、ということである。
どうしても、ルール化、標準化、というと、万物を表現できる完璧なルールを作ろうとしてしまう人が居るが、本質はそこではない。ルールとは境界線であり、リスクとしてイレギュラーの存在は認めなければならない。
イレギュラーの運用には発生頻度が低いことを前提とした対策が必要で、そこで重視されるべきはコスト低減ではなく、レギュラーへのハレーションの抑止である。
ルール化の影には、完全性や無謬性の罠が多数存在する。そういったものに引き込まれないようにするには、そもそも何のためにルール化しているか、という本質を忘れてはいけない。
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