自己肯定感の低い人は褒められ下手なので、人を褒めようとしても褒め方が分からずヨイショになってしまうという事案について。
そうか、だからあの人の褒め方は「気持ち悪い」のか・・・
今日もTwetterで見かけたご意見から掘り下げます。
自己肯定感の低い人は、褒めてられると嬉しい、だから「ヨイショ」で対処できる、というのが元Tweetだったと思いますが、そういえば、と思ったのがこの話。
実体験として、「この人、きっと褒めてるんだけど、なんか気持ち悪い褒め方だよなぁ」と思うことが過去何度かあったんですよね。褒めるのが下手な人って、要するに褒められ慣れていないので、人を褒めようとしたときに上手く褒められないんだろうな、というのは分かっていたですが、そうか、「ヨイショ」だったのか、という意見を見て、激しく納得してしまいました。
褒める=相手を気持ちよくすることなのか
ちょっと深堀りしてみると、「褒める」ことの目的は何か、が気になってきます。基本的には「承認」つまりは、その人の行為なり有り様が承認されることによって、相手の「承認欲求を満たす」ことなのかな、と思っていたのですが、上記「ヨイショ」のクダリを見ると、何か別のもののような気がしてきます。
何が違うか、といえば、「相手を気持ちよくさせようとしていること」。これかなと思います。
褒めるという行為に含まれた背景的な感情として、承認、あるいは尊敬、リスペクト、存在の尊重みたいなものがあるんだと私は考えています。ここに「相手を気持ちよくさせようとする意図」要するに「ヨイショ」の概念が入ってくると、そこに違和感が生まれるというのがどうやら気持ち悪さの原点のようです。
つまり、そもそも、褒める・褒められるということに対する概念の違いが、根っこにあるように感じます。
褒める=リスペクトでありたいというのが自分のスタンス
承認、尊重、その先にあるリスペクト、ありのままのあなたで良い、という存在の認定。「褒める」という概念の中に内在するものって、結構奥深いなぁと感じた一件でした。
一方で、「褒める」ことで相手を気持ちよくさせようとする意図って、裏返すとその見返りを求めて「褒めている」という一面が見えてきます。これが違和感の本質なんだな、と気づくことができました。
褒め合う文化を組織に根付かせたいと日々考えているのですが、褒めるという概念そのものの認識に乖離があると、これも上手くやらないといかんなと、課題認識する機会となりました。
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