コミュニケーションでは何も伝わらない話

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ちょっとSF的な話も加味しつつ、人と人とのコミュニケーションでは何も伝わらないという話をまとめておこうと思います。これは私のコミュニケーション観の原点といって良い概念の話です。

コミュニケーションでは何も伝わらない

人と人はコミュニケーションでは何も伝えられません。

ついにこの話題を書くときが来たか・・・と思いつつ。

そもそも、コミュニケーションとは何かといえば、情報伝達のことです。あるいは情報伝達手段。情報を伝えるためには、共通認識が必要です。それがプロトコルと呼ばれたり、あるいは言語と呼ばれたりします。私が脳内にりんごを思い浮かべたとき、それを「りんご」という言葉に乗せてあなたに伝えますが、あなたがそれを聞いて脳内に再生したりんごの概念が、私が元々思い浮かべていたりんごの概念と共通していることは、絶対に証明できないということです。

だからこそ、文化は言語にやどります。人々の脳内にある概念こそが、実は文化と呼ばれるものの実体なのかもしれませんが、それはそこに存在しつつ、外から見ても観測不能だし、記録として残すこともできません。唯一、それが形として外界に現れているのが、言語、言葉です。つまり文化という概念はコミュニケーションに映されて存在しているということです。

そして、このように直接的に概念が伝わらないことで、我々は個を獲得しています。個とはすなわち、このような形で別の個と直接的に繋がっていないからこそ存在しうる概念です。個はプロトコルによって別の個と情報を交換しあい、成長していきます。

翻って、じゃあ直接「個」同士が概念をやり取りできる世界があったとして、そこには個という概念は存在しなくなるでしょう。私が持っている概念とあなたが持っている概念に境界がなくなるわけですから。よくSFで描かれる、個のない、宇宙生命体、あるいは「思念体」などと言われるものは、この概念に近いものだと考えられます。

つまり、我々の持つプロトコルとしてのコミュニケーションは、情報伝達手段としての機能は有していても、そもそもの概念を直接的に伝える機能は持ち合わせていないわけです。それは機能的な不備ではなく、我々が個を獲得するうえでは必然であったということです。

伝わらないからこそ、できることを

私は学生時代に音声認識を研究しており、そこで言語という概念や音声の生成プロセス、聴覚の認知プロセスなどを学びました。コミュニケーションには量子化誤差が確実に存在すること、そして人間のコミュニケーションは明瞭度7割とかでも補完が効いてコミュニケーションとしては成立することなどを知り、コミュニケーションとはその程度のものだという認識を持ちました。

社会人になり、同僚やお客様にテクノロジーの紹介などをする機会が増えてきたとき、ふとこの概念が再度頭をよぎりました。それ以来、相手に情報を伝えることの価値が、相手の中に自分が作り上げたい概念をイメージすること、そしてそれは外部からは観測不能で、確認するためには相手からアウトプットを引き出さないといけないこと、などを考えるようになりました。

つまり、伝わらないんです。この記事を読んでいるあなたに私が何を伝えようとしているか、なんて、実は意味がない。重要なのは、読んだあなたの中に、どんな風景が想起されるか。それは伝達ではなく、創造なんです。所詮、言葉にはその程度の機能しかない。だからこそ、面白い。あなたの中に何が創造できるか。楽しみで仕方がないのです。

伝わらないからこそ、伝えたい。正確には、概念を作り上げ、感覚を共有したい。求めているのは、共感です。コミュニケーションの目標って、共感でしかありえないのです。

だから共感しましょう。感想を述べましょう。意見を述べましょう。そのアウトプットにこそ意味があり、唯一、コミュニケーションが生み出した価値となりうるものだから。それこそが文化。僕らが生きた証となる。

だからコミュニケーションが好き

以上、私がコミュニケーションが好きな理由について、書いてみました。だから好きなんです。不完全で誤解も多いし、面倒くさいし、でも、だからこそ面白い。もっとコミュニケーションしましょう。

最後に、同じように言葉の可能性を感じた私の原体験として、及川眠子の歌詞の世界観があります。言葉って凄いな、って思います。

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