「綺麗好きですね」と言われて、少し違和感があった話

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週末、実家で洗車をしていました。洗車用具をそれなりに取り揃えて、ボディだけでなく、ホイール周りや細かい隙間まで時間をかけて洗っていたのですが、その様子を見た母から「綺麗好きだね」と言われました。

たぶん、外から見ればそう見えるのだと思います。わざわざ道具を揃えて、時間をかけて、細かいところまで洗っている。結果として車は綺麗になるわけなので、それを見て「綺麗好き」と表現するのは自然です。

ただ、自分としては、その言葉に少し違和感がありました。

もちろん、車が汚いよりは綺麗なほうが良いです。洗車した後の車を見ると、それなりに気持ちも良い。ただ、自分が本当に満足しているのは、車が綺麗になったという結果そのものだけではない気がしました。むしろ、どの道具を使うか、どの順番で洗うか、どの汚れにどう対処するか、そういうプロセスを組み立てて、それを実行しているところに面白さを感じているのだと思います。

要するに、私は「綺麗好き」というより「凝り性」なのだと思います。

綺麗好きと凝り性は、似ているようで違う

綺麗好きと凝り性は、外から見るとかなり似ています。どちらも細かく作業しますし、結果として対象は綺麗になったり、整ったりします。なので、他人から見ると同じような行動に見えます。

ただ、内側で起きていることは少し違います。

綺麗好きは、どちらかというと「綺麗な状態」に価値を置いているのだと思います。汚れていないこと、整っていること、清潔であること。その状態に安心感や満足感がある。だから、結果として綺麗になっていることが重要になります。

一方で、凝り性は少し違います。もちろん結果も大事なのですが、それ以上に「どうやってそこに至るか」に関心があります。道具の選び方、手順の組み方、ちょっとした改善、前回との違い、作業の納得感。そういうものが積み重なって、結果として満足につながる。

洗車で言えば、綺麗好きな人は「車が綺麗になった」ことに満足するのだと思います。凝り性の人は、「今回はこの手順でやったらホイール周りがうまく落ちた」とか、「このブラシはこの隙間にちょうど良い」とか、「水の流し方を変えたら拭き上げが楽になった」といったことに満足する。

外から見れば、どちらも洗車です。でも、本人の中では別のゲームをしています。

ここが面白いところです。人の行動は外から見えますが、その人がどこで満足しているのかは見えません。行動だけを見ると「綺麗好き」に見える。でも本人の中では「工程を詰めること」が報酬になっているかもしれない。ここに、外からの解釈と本人の内面のズレがあります。

外から見える行動と、内側の報酬系は一致しない

この話は、洗車に限らないと思います。

会社でも、「あの人はレビューの指摘が細かい」という発言を聞くことがあります。実際、細かい指摘をする人はいます。言い回し、資料の構成、前提条件、数字の整合性、用語の使い方。見ている側からすると、そこまで言わなくてもいいのではないかと思うこともあります。

ただ、その人がなぜ細かく指摘しているのかは、外から見ただけでは分かりません。

単に細かい人なのかもしれません。完璧主義なのかもしれません。過去に細部の見落としで痛い目に遭った経験があるのかもしれません。資料の見栄えにこだわっているのではなく、誤解される余地を潰したいのかもしれません。あるいは、相手の思考を鍛えるために、あえて細かく見ているのかもしれません。

もちろん、悪いケースもあります。自分の優位性を示したいだけのレビューもあるでしょうし、相手をコントロールしたいだけの指摘もあると思います。そういうものまで美化するつもりはありません。ただ、少なくとも「指摘が細かい」という行動だけでは、その人の内側で何が報酬になっているのかまでは分からない。

ここを見誤ると、コミュニケーションはかなり簡単にすれ違います。

本人は品質リスクを潰しているつもりなのに、周囲からは細かい人だと思われる。本人は相手の理解を深めるために質問しているつもりなのに、相手からは詰められているように見える。本人はスピードを上げるために情報を絞っているつもりなのに、周囲からは情報共有をしない人だと思われる。

行動は同じでも、その背後にある意識が違うと、受け取られ方も変わります。そして、多くの場合、その背後にある意識は言語化されていません。

報酬系を言語化するということ

ここでいう報酬系という言葉は、厳密な脳科学の話ではありません。もっと日常的な意味で、自分は何に満足するのか、何が気持ちよいのか、何が嫌なのか、どこまで行くと納得できるのか、という話です。

自分が何に報酬を感じているのかを言語化できると、自分の行動をかなり説明しやすくなります。

たとえば、私は洗車について「綺麗にしたい」というより、「手順を組み立てて、細部を攻略して、納得できるプロセスを完遂したい」と言ったほうがしっくりきます。車が綺麗になることはもちろん嬉しいのですが、それは結果であって、満足感の中心は少し別のところにある。

こう言語化できると、自分の行動に対する誤解も減ります。

「綺麗好きなんですね」と言われたときに、「いや、実は綺麗好きというより、道具や手順を詰めるのが好きなんですよ」と説明できる。これだけで、相手から見えていた行動と、自分の内側にある価値が少し接続されます。

これは仕事でも同じです。

レビューが細かい人も、「私は細かいところが気になるんです」と言うだけでは、たぶん周囲にはうまく伝わりません。そうではなく、「この種の資料は、前提条件が曖昧だと後工程で手戻りが大きくなるので、先に潰しておきたい」と説明できると、だいぶ印象が変わります。単なる細かさではなく、何を守ろうとしているのかが見えるからです。

逆に、相手の行動を見る側も、「この人はなぜこの行動をしているのか」と一段深く見たほうが良いのだと思います。

細かい指摘をする人を見て、すぐに「細かい人」とラベルを貼るのではなく、その人は何が満たされると安心するのか、何が崩れると不安になるのか、何を守るためにその行動をしているのかを考える。そこまで見ないと、その人の本当の動機は分かりません。

人の行動はログのようなものです。ログを見れば、何が起きたかは分かります。ただ、なぜその挙動になったのかは、設定ファイルを見ないと分かりません。人間の場合、その設定ファイルに近いものが、その人の価値観であり、報酬系なのだと思います。

AI時代には、内側の報酬系を言葉にできる人が強い

この話は、これからの時代にはさらに重要になる気がしています。

AIを使えば、文章を書くことも、資料を作ることも、調査することも、以前よりずっと簡単になります。ただ、AIに作業を任せるほど、「自分は何を良いと感じるのか」を言葉にする能力が問われるようになります。

単に「いい感じにして」と頼んでも、自分にとって本当に良いものが出てくるとは限りません。なぜなら、「いい感じ」の中身は人によって違うからです。

結論が先にある文章を良いと感じる人もいれば、考えながら読み進める文章を良いと感じる人もいます。整った文章を良いと感じる人もいれば、少し引っかかりのある文章を良いと感じる人もいます。網羅性を重視する人もいれば、違和感の正体を掘ることを重視する人もいます。

AIに対して自分の好みや価値観を伝えるには、結局、自分が何に満足するのかを自分で分かっている必要があります。これは、単なるプロンプトの技術ではありません。自分の報酬系を言語化する力です。

人に仕事を頼むときも同じです。

「ちゃんとやって」と言われても、何をもってちゃんとなのか分かりません。「分かりやすくして」と言われても、誰にとって、どの程度、どの観点で分かりやすいのかが分かりません。結局、依頼する側が自分の期待や価値観を言葉にできていないと、受け手は手探りになります。

これからは、作業そのものの能力だけでなく、自分が何を良いと感じるのかを言葉にする能力が、かなり重要になるのではないかと思っています。

コミュニケーションのズレは、行動ラベルから始まる

人は、見えた行動に対してすぐにラベルを貼ります。

綺麗好き。細かい人。雑な人。慎重な人。仕事が遅い人。共有しない人。詰める人。丸投げする人。そういうラベルは、状況を素早く理解するためには便利です。ただ、便利な分だけ雑でもあります。

今回の洗車の話で言えば、「綺麗好き」というラベルは間違いではありません。少なくとも、外から見ればそう見える行動をしていました。ただ、それだけでは自分の内面を正確には表していない。自分としては、綺麗な状態そのものよりも、プロセスを組み立てて実行することに満足していたからです。

このズレは、日常でも仕事でもよく起きているのだと思います。

相手の行動を見て、分かったつもりになる。でも、実際にはその人の内側にある報酬系までは見えていない。だから、解釈がズレる。ズレた解釈のまま会話すると、相手は「そういうことではない」と感じる。そこから、ちょっとしたすれ違いが生まれます。

だからこそ、自分の報酬系を言語化することと、相手の報酬系を想像することは、コミュニケーションにおいてかなり大事なのだと思います。

「あなたは細かいですね」と言う前に、「そこを細かく見ることで、何を担保しようとしているんですか」と聞いてみる。「綺麗好きですね」と言う前に、「綺麗にすること自体が好きなんですか、それとも手順を詰めるのが好きなんですか」と聞いてみる。

たぶん、それだけで見えるものが少し変わります。

人は行動で判断されるが、本人は報酬で動いている

今回の洗車の話は、かなり小さな出来事です。週末に実家で車を洗っていただけの話です。ただ、その中に、意外と大きな気づきがありました。

外から見える行動と、本人の内側にある価値は一致しない。

人は行動で判断されます。でも、本人は行動そのものではなく、その先にある報酬で動いています。何に満足するのか。何が気持ち悪いのか。何が整うと安心するのか。どこまで行けば納得できるのか。そこが違えば、同じ行動でも意味は変わります。

洗車という行動は同じでも、ある人にとっては清潔さを保つための行為かもしれません。別の人にとっては、道具を使い分ける趣味かもしれません。さらに別の人にとっては、車との関係を維持するメンテナンスかもしれません。

仕事も同じです。

レビューする。資料を作る。情報共有する。会議で発言する。黙って考える。早く出す。細かく詰める。そうした行動の背後には、その人なりの報酬系があります。そこを見ずに、行動だけで相手を分類すると、たぶん見誤ります。

今回、母から「綺麗好き」と言われたことで、自分の中では「いや、たぶんそうではない」という違和感が生まれました。その違和感を掘ってみると、自分は結果よりもプロセスに価値を感じているのだと分かりました。

こういう小さな違和感は、案外大事です。

違和感は、自分の内側にある設定ファイルを開くための入口なのかもしれません。普段は意識していない自分の報酬系が、外から貼られたラベルと少しズレたときに見えてくる。

そう考えると、週末の洗車もなかなか悪くありません。車は綺麗になりましたし、自分の認知も少し掃除できました。

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